『オレ様化する子どもたち』
テーマは面白いんだけどね。
元教師が教育を語るということで、その価値観は教師の枠を超えないですね。
多分言ってることは本質的で的を射ているんだけど、入ってこない。。
それが元教師だからと言って片付けてしまうには余りに皮肉と言ったものか。
子どもたちの取り巻く環境の移り変わりを
「農業社会」→「産業社会」→「消費社会」と表現しているのは面白い。
そしてそこにさらにイデオロギーが重なる。
コンサーバティブ(保守的)→リベラル(進歩的)
もしくは
「共同体的」→「市民社会的」
とも言っている。
共同体的というのは、社会(集団)があって、個があるっていう考え方。
市民社会的というのは、まず個がいて、個が社会(集団)を作るという考え方。
自分としては、個の時代という感覚はあったが、それが教育界では左傾化してきているという発想はなかったからちょっと意外だった。
一方で前述の通り、経済自体は近代は資本主義化が進んで、現在は消費社会真っ只中だ。
個を大切にした消費社会において、子ども達は教師や親をどう捉えるか。
一昔前の共同体的な社会であれば、教師あるいは親主導の「教える」「教えてもらう」言い換えれば教師が教育を「贈与する」生徒が「贈与を受け取る」という関係が成立していたが、
昨今は、子ども主導の教育になったことで、市民社会的な「商品交換」「等価交換」の発想が生まれたという話だ。※等価交換の話は別書の感想で詳しく取り上げる。
共同体的な教育観(旧文部省的な考え方)では、子供は当初知的に自立しておらず、「社会が必要と判断しているもの」を学ばせる中で、「自らが必要とし、望むもの」を学べるようにしていけば良いという考え方だった。
自分もそれで良いと思うんだけどね。
ところが近年、市民社会的発想による「新しい学力観」みたいなのが叫ばれるようになっちゃって、おかしくなってきているね。おかしいと感じるのは私の個人的感想。
この話が大事なのは、最終的に、「なぜ勉強するのか」という本質的な問いに繋がっているからです。
市民社会的な環境下において個を大切にすることで、子供たちは、勉強する理由に、それに伴う等価のものを求め始めてしまった。つまり、勉強する目的が、「将来の自分の役に立つかどうか」。この一点で判断してしまうようになってしまった。
ここで問題なのは、「等価」かどうかを決めるのは子供の少ない経験からくる判断であること。つまり価値が分からない段階で、判断してしまっているということ。
だから、誤解を恐れずに言えば、勉強しなきゃいけない理由は、「勉強しなきゃいけないから」、で良いんですよ。もう少し親切な言い方をすれば、将来役に立つかどうかなんて今分かるはずないんだから、それが分かる日までは、役に立つかどうか考えず、やれってこと(全然親切じゃないなwww)。
2時間ドラマの伏線のように、全ての行動に2時間以内に回収できる「意味」があるわけではない。
でも、人生を2時間ドラマとするならば、全てが伏線だったと言うこともできるわけです。
それが80年後の回収だとしてもね。
教師が教育を語るのは当たり前だから、もっとこういう話が一般化したら良いと思います。
教育っていうテーマは、教育業界に押しとどめておくテーマじゃないわけです。
やがて子供たちは大人になり、未来の社会を形成していく人間になっていくわけですから。